現代の我々は、インターネットがもたらす膨大な情報の海を漂っている。その中でもSNSを通じた世界中との繋がりは、日夜「発信」と「反応」を求め続けるものであり、決して潤うことのない心の渇きを覚えさせる。それは「何かを伝えたい」という純粋な思いだけではなく、どこか他者からの承認を渇望する、飢えた姿勢も垣間見えるためであろう。
このような喧騒の中、日本が梅雨の時期を迎えると、つい安居を連想してしまう。インドでは雨季に遊行することで虫を殺めるなどの無益な殺生を避けるため、出家者達が御堂に寵った。この「雨安居」の情景が、今の季節の雨に重なるからだ。古来、日本にあっても夏の安居は律典に基づく実践として重んじられてきた。そこでは禅定などの行に励むことはもとより、仏典の講義なども行われ、修行に適した環境が整えられていたことで知られている。そして安居の最終日には自恣という肝要な儀式が実施されていた。これを通じて出家者たちは、自ら犯してしまった罪過を懺悔して身心を清らかにし、日常の修行へと戻っていくのである。
絶え間なく流れる日々の中で、自分の言動が正しかったのかどうか、静かに胸に手を当てて振り返る機会は、今の社会にどれほどあるのだろうか。かの松尾芭蕉は日光の裏見の滝を訪れた際、夏安居にちなんで「暫時は滝に籠るや夏の初」という句を詠んでいる。目を閉じれば、激しく落ちる水の幕が外界の喧騒を断ち切り、一種の静寂な空間を創出してくれるかのようだ。梅雨の外出はどうしても憚られるものがある。だからこそ溢れる情報に溺れがちな現代人にとって、世事の喧騒を離れる静寂な籠りの時間は大切にすべきであろう。この雨の季節、自らの内面を見つめ直す契機としたい。