未曾有のコロナ禍に揺れた令和二年を送る

投稿日:2020年12月15日

宗団から末寺まで、それぞれの立場でコロナ禍への対応を迫られた一年が、その渦中で過ぎようとしている。この試練は、我々に何を問うているのか。
感染防止対策の中で、葬儀、法事、寺院での行事等が「密接・密集・密閉」の「三密」を避けるために、縮小・自粛された。各末寺の著しい収入減を受けて宗費削減の方針を打ち出した宗派もある。経済的な打撃は極めて大きい。
経済を回すことによって勢いを増す「感染苦」と、経済を止めることで拡大する「生活苦」の狭間で、政府の景気刺激策「Go Toキャンペーン」に象徴されるような混乱も社会の随所で発生している。命の最前線で日夜ぎりぎりの闘いをしている医療従事者と、時短要請に苦悩しながらも応じる飲食店経営者の悲痛な声が報道されない日はない。こうした状況を目の当たりにした時、一人の宗教者として微力でも祈らずにはいられない衝動に駆られる。
各派総大本山やそれぞれの末寺で、コロナ終息の祈りが捧げられ、宗教・宗派の垣根を越えての祈りの共有も継続されている。寺院の地域コミュニティとしての機能が制限される中で、SNSを駆使しての法要のライブ配信などの新しい試みがなされ、写経を行ったり梵鐘の音に合わせて黙祷したりする「離れていても繋がっている在宅の祈り」も積極的に推進されてきた。そうした中での感染拡大…。祈りは無力なのだろうか。ワクチンや特効薬の開発と普及を待つ間だけの励ましに過ぎないのだろうか。絶対にそうではない。神仏への敬虔な祈りは、苦しみの渦中でも自分が孤独ではないことを教えてくれる。そして祈りの共感が周囲の人々との連帯を生み出す原動力になる。
祈りの力を信じた一年が終わり、新たな祈りの一年が始まろうとしている。