日本武道精神への回帰

投稿日:2016年08月20日

 スポーツの秋、全日本剣道選手権に引き続き全日本学生体重別柔道大会を見て痛感したのは、日本武道の精神美を失ってしまった柔道への失望であった。日本古来の精神美に充ちた剣道選手権に見たものは、緊迫の中に静まり返る観客に見守られて、研ぎ澄まされた技を競う剣士たちの凛々しさと礼儀正しさ、そして闘い終えた剣士たちの表情の知性的な美しさであった。
 これに対して柔道はどうか。耳を聾する応援の怒号の中、美しい白と黒という柔道着を捨てて、背には広告を背負い黒帯の上に更に赤白のだんだら帯を巻いた見苦しい姿と、椅子にかけて崩れた姿勢で試合を待つ選手たち、そこには緊迫した精神美の欠片も感じられず、中途チャンネルを変えた。国際的という美名のなかで柔道は余りにも本質を失い、醜い格闘技に堕した。
 剣には「剣禪一致」という言葉がある。禪の極意は無心。されば剣もまた何ものにも固執しない明鏡止水の境地をこそ求むるものであり、柔道もまた「柔」の精神は「自然体」という基本姿勢に象徴されるように「無一物中無尽蔵」の仏教真理を体現するものであるが、今はその片鱗もない。
 武道の「武」は「(ほこ)を止める」と造る。「(ほこ)」とはすなわち闘争の象徴であるが、闘争を止める爲に最も大事なことは、相手を尊ぶ礼儀でなければならない。剣道大会の剣士たちの礼儀の美しさが教えていたのは、柔道の堕落も、そして国技たる相撲の崩壊も総ては礼儀の喪失に起因するということであった。ボクシングの亀田などは論ずるに足らないが、柔道だけは、礼節と正しい姿勢の日本伝統の美しい柔道を失ってはならないと痛感する。