医は仁術・教師は聖職

投稿日:2016年08月20日

 いま医療と教育が厳しく問われている。宇和島徳州会病院に於ける臓器売買に続く病変臓器移植手術に医の倫理が問われ、一方教育界では小学生の教師への暴力沙汰や、教師の年端もゆかぬ教え子への破廉恥行為、更に虐めによる幼き者たちの自殺や学力低下に教育改革が叫ばれている。だが、その教育改革を国政の基本方針に掲げて登場した新政権は、教育改革への民意を汲み取るべきタウンミーティングで「やらせ質問」という最も反教育的八百長を演じた。今や医も教育も当に崩壊の危機に瀕しているのである。人間の身心を育むこの両職業を支えてきたのは、医は仁術、教師は聖職という自己の職業の崇高性への誇りであった。そしてこの誇りによる倫理こそが人々の信頼と尊敬を維持すると共に、人間の身心を育ててきたのである。
だが、敗戦による民主主義の強制移植はこの両者に自らその崇高性を放棄せしめ、医は仁術ならぬ算術と化し、更に移植医術の進歩によって(悪)魔術と化し、教師また聖職者の誇りを捨ててあられもなき性職者に堕し、愛国心強要のみが教育の正常化だと錯覚する政権や無用の長物たる教育委員会、そして良識の欠片もないPTAに鼻面取って引き回される体たらくとなった。
医と教育の荒廃は即人間の荒廃を意味する。今さまざまな識者の論議がなされているが、要は医師が仁術を、教師が聖職者としての自覚を自らの精神の基盤に据える以外に現代人の荒廃を防ぐ道はないのではないか。本誌は何も仁術・聖職として薄利・薄給に甘んじよという気は毛頭無い。誇りを持てというのである。世界は先ず精神によって改革されるのである。